日本のフリーメイスン
ロッジ活動の条件
明治32年(1899)になると治外法権が廃止され、政府は日本人を会員としないことと、あまり派手な活動を行わないことを条件に日本におけるメイスン活動を認めました。当時の在日外国人のメイスンの中には日本の近代化に貢献した人々が数多くいました。例えば、神戸の開発に貢献したドイツ人商人フィッシャー(E. Fischer)、外交官で文学者であり、日本と日本文化を西欧に紹介した英国人アストン(William G. Aston)、大阪造幣局長をつとめた英国人キンダー(Thomas W. Kinder)、英国人ジャーナリストで英字新聞「ジャパン・ガゼット」、邦字新聞「日新真事誌」を創刊し、「ヤング・ジャパン」を執筆したブラック(John R. Black)、通信技術を紹介、指導した英国人電信技士ストーン(William H. Stone)、東大その他で教鞭をとり、後にゲーテ座、フランス領事館その他を設計したフランス人建築家サルダ(Paul Sarda)、英国人造船技師ハンター(Edward H. Hunter)、ベネチア生まれで英国国籍の写真家ベアト(Felix Beato)やアメリカ人医師エルドリッジ(Stuart Eldridge)などです。いずれにしても当時の日本におけるメイスンはすべて外国人でした。。
戦前メイスン会員となった日本人
一方、当時海外においてフリーメイスンに入会した日本人がいました。江戸時代末期から明治時代に活躍した学者、西周、津田真道は文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダのライデン大学でメイスン会員であったフィッセリング教授(Simon Vissering)のもとで学びました。西は元治元年(1864)10月、つづいて津田は11月にライデンの「ラ・ベルトゥ・ロッジ No. 7」に入会しました。また明治時代の外交官であった林董は明治33年(1900)から明治39年(1906)まで英国に駐在し、その間にメイスンとなっています。彼は明治35年(1902)の日英同盟条約に日本代表として調印しました。そしてその翌年の明治36年(1903)2月にロンドンの「エンパイヤー・ロッジ No. 2108」に入会し、同年3月には第二階級に進級、5月に第三階級に昇級し、翌年の1月にはロッジの総責任者であるマスターに就任しました。このように短期間で彼がロッジのマスターになったのは、外交官としての職務上近い将来、任地が変わる可能性があったのと職務の重要性を考慮して、ロッジの所属会員が彼をロッジのマスターに選出したからです。彼は明治38年(1905)に日本の初代英国大使となりました。またオランダや英国以外にも、米国やフィリピンなどで戦前にメイスンになった日本人がいました。